御先祖様を追いかけて。海軍篇
おはようございます。
昨年に調査依頼を出した厚生労働省から1月の終わりに封書の返信がありました。
きっかけは戸籍謄本です。
最初は何代前まで遡ることができるのかだけを目的に取り寄せた戸籍でしたが、
細かく見ていくうちに発見した「横須賀」の文字
さらに細かく見ていくと
「戦死」の文字と日付
その日付から「レイテ沖海戦」「捷号作戦」だろうということは明らかでした。
ただし、レイテにはかなりの数の艦艇が出撃していた為、
搭乗艦など細かな情報は、やはり厚生労働省の調査書類が届くまでは、完全に突き止めることはできませんでした。
軽巡洋艦多摩の乗組員でした。
届いた軍歴簿の写しから経歴を見てみます。
横須賀の第二海兵団(現在の海上自衛隊武山教育隊)に入隊、久里浜の通信学校を出ております。
第65期普通科電信課程とあります。
詳しいことはわかりません。当時の船乗りの通信はモールス?とか漁船みたいにソナーみたいな電探の技術もあったのでしょうか?
一概に通信といっても何を専門にしていたのかまではここからは読み取れません。
この、65期の久里浜の同期会?のようなものが、関西のほうで10年ほど前までは存在していたそうなのですが、現在はわかりません。
このような戦時中の同期会は、全国各地に存在しているはずなのですが、最近は会員の高齢化も進み、閉会されることが多くなっているようです。
さて、巡洋艦多摩ですが、
レイテ沖海戦後半では、
攻撃を受けてそこそこの速度しか出せず、修理の為沖縄に向かう多摩を単独で航行させるのは危険だとわかっていても、
他の艦もかなりの損害を受けており、
護衛に付けられる艦がなかったようです。
その途中ですれ違った日本の艦が多摩を確認したのを最後に消息は途絶え、
誰も多摩の最期を知る者はおらず、
また、艦長以下数百名は誰一人として生きて帰りませんでした。
10月25日夜の11時、日付けが変わる前頃に米軍の潜水艦が発射した魚雷にあたり、艦が2つに折れて轟沈したというのは、戦後、米軍の資料から明らかになった情報のようでした。
昭和20年3月の時点で戸籍に記載されている情報が、「時刻不詳」なのは、このような理由からだとわかります。
私の御先祖様の直系の親族たちも、
(この方は私の母方の祖母の、父方のいとこで、私とは※6親等の方です。祖母は昭和16年生まれなので、当時3歳)
戦後このことについて語ることもなかったそうで、祖母をはじめ私の親族は、全く知らなかったそうです。
私が調べなければ家族が知ることがなかっただろう若くして戦死された御先祖様と、南太平洋に沈んでいる軽巡洋艦多摩について、もう少し調べてみようと思いました。
※以前の記事http://bankara3.hatenablog.jp/entry/2017/12/16/001947 曾祖父の履歴書。徐州徐州と
で、青森県庁健康福祉政策課へ資料請求した際は、3親等まで(都道府県管轄なので、各地で差があります。)とされましたが、
2017年12月の時点では、厚生労働省の場合は6親等まで調査依頼を受け付けているようです。